教会の優先課題:青少年司牧と高齢者への配慮
 
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マルシリオ神父の5分間ミニ講座



【8】 信者が求められる行いについて


((本当に5分間の講座)

二週間前からゆるしの秘跡について話をしています。
今日もその続きについてはなします。
告解場に入る前に3つの点について話します。
信者が求められる行い、良心の糾明と罪の痛悔と決心の3つの点についてお話します。


自分の生活と心の有様を
考えてイエスの言葉と
比較してみる。

良心の糾明は心を調べるということです。あるいは反省するということです。短い祈りをとなえてから、これはどこでも唱えられます。教会に来る間に、車の中で、家でもたとえば、主の祈りや、マリア様の祈りとかを唱えて、自分を神の御前に置いてイエス様は自分を見ていると考えて反省をおこなうのです。自分の悪いことよりも、生活の中での神様の不思議な業を考え、神様が与えてくれた恵みを考えるのです。生きるだけでも大きな恵みです。家族があるだけで大きな恵みです。食べられる事でも大きな恵みです。そういうことを先ず考えて自分がこうした恵みに応えないことを反省します。特に聖書の言葉を考えるのです。聖書の言葉をいくつか申し上げれば「悔い改めなければ天の国に入れない」マタイ福音書、またヨハネの第1の手紙にある言葉「自分の過ちがないといえば偽り者である」ということを考えて、自分の生活と心の有様を考えてイエスの言葉と比較してみる。たとえば「 全てを尽くして神を愛しなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」「御父が完全なようにあなたたちも完全なものになりなさい」「 御父が慈しみ深いものであるようにあなたたちもなりなさい」というような言葉を少し頭において反省するのです。 たとえば、「十戒」について考える、或いは勤めを果たしているか否かを考えます。「十戒」を簡単に3つにまとめますと、神と私たちの生活。生活の中で聖書の言葉や教会の教えがどういう地位を占めているのか、祈りや日曜のミサのことや、金曜日の小さな犠牲とか、大斉、小斉のつとめとかいろいろあります。教会の維持費や奉仕はどうか、神と自分、教会と自分について反省し、神が中心か、自分が中心かを反省し「 すべてを尽くして神を愛しなさい」という言葉を思うと、めまいがする思いがするはずです。


家庭の為、充分な時間
をあたえているのか?

また、自分の家庭生活を考えて家庭の為、充分な時間をあたえているのか?生活費を与えているかもしれませんが自分の心が少しそこに与えているのか?自分がそこにいるのか?或いは仕事を真面目にしているか?給料をもらう以上、真面目に仕事を果たさなければならない、学生なら勉強しなければならない、授業に真面目に参加しなければならない。
それを通して自分の生活費を得るのです。
うその上に自分の生活を基づいているのか?
いつも本音を出さずに建前だけでは人間関係が悪くなるのです。
本音と建前は人間は2つに分かれるからノイローゼになるのです。だから病気が多いのです。うその上に私たちの生活を基づいていないか、或いは人を傷つけていないか、暴力をふるっていないか、物欲、肉欲、貪欲、ねたみを抑えているか等などいろいろあります。

自分がそれを抑える。自分の知恵、健康、力を有効に使っているか?社会に役立たせているか?生活には試練と苦しみがあります。その前に不忍耐になるのか、受け入れているのか?やはりイエス様の十字架を考えないとこれが受け入れられません。こういう模範が我々の前にあります。
他人につまずきを与えているのではないか?自分の良心の声に心を傾けていると結構感じるのです。
でも、ほかの事にとらわれて、自分のなかの世界に耳を傾けないで、とにかく反省し心を変えようと思ったら、心の中に入って反省しなければならないのです。


わたしたちの悪い行い
が、イエスを十字架に
はりつけたのです。

わたしたちの悪い行いが、イエスを十字架にはりつけたのです。 そして、悪かったのならば、つみを痛悔するのです。罪を痛悔するには、ペトロの話を思い出すのです。ペトロが聖霊を受けてから、外に出てイスラエル人に向かって話したとき「 あなたたちがナザレのイエスを十字架にはりつけたのだ。」これはイスラエル人だけでなく、わたしたちの悪い行いが、イエスを十字架にはりつけたのです。
だから悔い改め心を変えなさい。イエス様が十字架につけられて道を歩く途中で女性に会い、泣いたとき「 私のことを泣くのではなく自分のこと、自分の罪の為に泣きなさい、それを考えて泣きなさい」と言った。
やった悪いことを悔いに思う、これが痛悔です。
残念な気持ちを起こすこと、神の愛を拒んだことを悔いに思うこと、そして他人を傷つけたことを悔いに思うこと、それを変えようとすることです。
この痛悔には、2つの種類があります。完全な痛悔とは神様を傷つけたから、神様に侮辱を与えたから、神様の愛を考えなかった等から悔いの思いが出るのは完全です。
完全な痛悔の場合罪が許されます。不完全の痛悔の場合はどうしても許しの秘跡が要ります。痛悔は私たちに新しい心を取り戻させるのに必要です。そして決心をたてる、もうこういう事をしない、悪い機会を避けます、これから神様をもっと大事にします。
この愛を持って告解場に入るのです。これが告解場に入る前の私たちがやらなければならないことです。そうしないと告解場に入っても口先だけでものを繰り返して言うだけで心は変わりません。
準備をしないと神様を試みることになります。


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