下井草教会について

教会の歩み

 1945年8月太平洋戦争終結によって、多くの日本人は精神的支柱を失い、虚無感にさいなまれていたが、その穴うめとして宗教に救いを見出そうとする者も多かった。
実際キリスト教、特にカトリックの受洗者も急速に増加し、このため東京教区に於いても教会を増設する必要に迫られていた。
1948年に、時の東京教区長ペトロ土井辰雄大司教は、サレジオ会に対し下井草に聖堂を建設するよう依頼している。土井大司教は早期の聖堂建設を望まれ、1949年1月には建設資金の一部として3,000ドル(当時の円換算として約100万円)が寄付されている。
1949年11月26日下井草教会は高円寺教会から正式に独立し、東京教区の18番目の小教区となり、(*下井草教会は、1949年4月17日の復活祭の日をもって教会創立日としている。)サレジオ会は、初代主任司祭として、マンテガッツア神父を任命した。

当時は帝都育英学院の付属聖堂を使用しており、受洗者の数も多く、聖堂は、たちまち手狭になり、主日には履物が玄関にあふれ、信者が聖堂外にはみ出す有様となった
このため新聖堂建設の気運も高まり、建設に向け着手することになった。
実際の聖堂建設の秘話は、1944年12月8日無原罪の聖マリアの祝日に、尊者チマッティ神父が、東京空襲から会員と事業のご保護を願い、その返礼に扶助者聖母マリアに捧げる新聖堂献堂の誓願を立てたことから始まる。
尊者チマッティ神父の誓願と志を同じくしていたマンテガッツア神父の願い通り、新聖堂は「扶助者聖母マリア」に捧げられることになった。
その建設資金の大部分(総工費2,000万円)はサレジオ会とマンテガッツア神父の働き、そして当時の信徒によるもので、7年余の歳月をかけて準備し、チマッティ神父の誓願から20年、小教区発足と土井大司教からの依頼から15年の歳月を経て、1956年10月21日大司教をお迎えして新聖堂落成式となって花開いた。
マンテガッツア神父が特に希望したとされるネオロマネスク風の非常に単純化された丸と半円アーチを特徴とした教会堂が完成した。

主日ごとに高い鐘楼から鳴り響く3個の鐘と、パイプオルガン、聖堂前の無原罪の聖母像、大理石の正面祭壇等はマンテガッツア神父の出身地カルダノ教会からの寄贈によるもので、1969年にはカルダノ教会との間に姉妹教会としての締結がなされている。
創立当初72名だった信者は今や2,308人(2021年12月現在)を数えるに至った。
最近の主日のミサの参加者は、コロナ禍のこともあり、平均300人程である。
マンテガッツァ神父は、1989年第一線を退かれ、その後の歴代主任司祭はロカーティ師、シモンチェリ師、尻枝毅師、コンプリ師、マッサ師、そして西本裕二師、並木豊勝師(2019年へと引き継がれ、サレジオ会の創立者であるドン・ボスコの教えは今も大切に受け継がれている。
1971年には共助組合が設立され、日本共助組合連合会に加盟。非営利の生活支援型小口金融機関として需要に応え、2001年にカトリック司教協議会の公認活動団体として承認され、現在も活動中である。
1978年にはシモンチェリ師のもとで、ボーイスカウト東京杉並第11団が誕生した。
1997年12月には、府中墓地に長年待望の教会納骨堂が完成している。
1988年、聖ヨハネ・ボスコ帰天100周年に当たって、故教皇ヨハネ・パウロ2世はドン・ボスコゆかりの地トリノ大聖堂に巡礼されたが、下井草教会はこの「恵みの年」に全免償をいただく指定巡礼教会として、世界8教会の中の1つに選ばれた。
1999年5月30日には下井草教会創立50周年の記念ミサ・祝賀会が白柳枢機卿臨席のもと執り行われた。
大聖年を目前に教会は、「信徒使徒職に関する教令」に従って、12の活動部門を設け、大勢の信者が参加できるよう、その門戸を開き、現在奉仕活動は20部門を数える。
2001年には、教区から「新しい一歩」が発表されたのを受け、11人の委員を選出、「新しい一歩委員会」が設置され、2003年には関町、徳田教会と共に、豊多摩南宣教協力体として発足。
3教会は福音的指命を果たすための協働作業に取り組み始めた。
 2006年には献堂50周年の年を迎え、聖堂建設からの50年を振り返り、次の50年への「次世代につなぐ架け橋」の年として、次の新しい一歩を踏み出し、広報委員会はホームページを立ち上げ、宣教を視野に入れた活動を始めている。
2011年3月11日、東日本大震災発生。教会委員会は直ちに支援対策を講じ、現地へのボランティア派遣、支援金の送付、福島県産の米の購入など、長期にわたる支援活動を行った。
教皇ベネディクト16世は、第二ヴァチカン公会議開催50周年と「カトリック教会のカテキズム」発布20周年を記念し、2012年10月11日から翌年2013年11月24日までを「信仰年」とする宣言をされた。
全世界のカトリック信徒が、今一度自分の信仰の歩みを振り返り、自分の信仰を確かめるための大切な時を迎えたことになる。教会は西本師のもとに「信仰年」を迎え、11月18日には「信仰年を迎えて」を主題に宣教協力体が中心となって、宣教フォーラムを開催。
2015年には聖ドン・ボスコの生誕200周年を迎え、各種イベントが開催され、2016年には献堂60周年を機に、十字架の道行、中央祭壇の十字架などの修理が行われた。
2017年には献堂100周年に向け、聖堂の営繕のための献金活動がスタートし、2020年の2月の灰の水曜日からはコロナ禍のため、ミサなどが中止になったが、その最中に、6月~9月には、聖堂外壁の大修繕が行われた。
2022年には、ドン・ボスコ会館も老朽化のため外壁の大修繕が行われ、創立75周年に向け環境整備が行われている。

サレジオ会について

サレジオ会とは、カトリック教会の男子修道会です。青少年教育を目的にイタリア人神父ヨハネ・ボスコ(通称ドン・ボスコ)によって、1859年にイタリアのトリノに設立されました。
青少年教育に欠かせない慈愛の精神を忘れないために「慈愛と柔和の聖人」と言われた聖フランシスコ・サレジオを保護の聖人として、孤児院や青少年教育、出版事業を中心に活動を始めました。現在、世界92ヶ国に広まり、17,000名のサレジオ会員がドン・ボスコの教育理念を継いで、それぞれの事業の中で多くの協働者を得て働いています。
日本には1926年にチマッティ神父を中心とした9人のサレジオ会員が渡来し、小平サレジオ学園や中津聖ヨゼフ寮などの養護施設、横浜サレジオ学院、大阪星光学院、宮崎日向学院、サレジオ高専などの学校、またドン・ボスコ社などの出版事業を展開しています。
下井草教会においても青少年に配慮した活動を行っています。「扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)」「イエスのカリタス修道女会」は、サレジオ会の姉妹会として、青少年活動で一緒に協力しています。

サレジオ会ホームページ

扶助者聖母マリアとは

キリストの民は、聖マリアの実際的な助けを幾度となく体験してきました。人々が困難な状態から解放されるために、神に救いを願った時、乙女マリアは自分の人生を神に差し出し、キリストがこの世に来ました。
キリストがこの世を去った後に、おびえる弟子達を励まし続けたのは、母マリアでした。マリアがこの世を去った後、人々は聖母マリアに取次ぎを求めて祈る習慣が生まれました。
教会の存続の危機にあった時には、あの最初の教会を励まし続けたマリアを思い起こし、マリアへ祈ることが多かったようです。
時を経て、聖母マリアの呼び名が神の母、「キリスト信者の助け」という呼び名になっていきます。
1814年、教皇ピオ7世はナポレオンと激しく対立して幽閉されてしまいます。教会存続の危難と考え、多くの人がマリアに祈ったそうです。その結果、5月24日に、幽閉先から解放されてローマに戻ることが出来ました。
この出来事がヨーロッパ諸国に大きな影響を与えることになり、教会は5月24日を「扶助者聖母マリア」の祝日に制定しました。
 この称号を持つマリア像は、頭に王冠をかぶり、右手に権威を示す王笏を持ち、左胸あたりに幼子イエスを抱き、青い長いマントを着た姿をしています。

「扶助者聖母マリア」へ祈る習慣をドン・ボスコは母から教えられ、終生続けていき、その習慣は後継者たちに引き継がれていきました。
9歳の時の夢に出て来たマリアは、このマリアでした。また子供の世話をしていた母マルゲリータが世を去った後、子供の安全と健康を委ねたのも「扶助者聖母マリア」です。 
そのため「扶助者聖母マリア」は、サレジアンファミリーの第一の保護者としています。